森へようこそ
車椅子の車輪を押す手に力がこもる。
薬屋の薬が売り切れならば、自分で薬草を探すまで。
石畳の続く街並みから砂利道の農道、やがて雑草の茂る山道へ。
手のひらの皮がむけて、もう前に進む気がしなかった。
お姉ちゃん、熱いよぉ!
弟がうなされる様が頭をよぎった。
木の根をまたいで、ガタガタ言わせながら前に進む私。
陽が傾いた夕方、探している薬草が目の前に現れた。
細い葉のなかから茎が伸び、鈴なりに花が垂れている。間違いない。
グッと前に踏み出したとき、嫌な感触と共に視線が一段低くなった気がした。
しまった。ぬかるみにはまった。
手をベトベトにして車輪を回しても、空回りするばかり。
体重と車椅子の重みで、徐々にからだが沈んでいく…。
あっ、ああっ!
この足が動けば、なんとかなったかも。
そばの雑草をつかんでみたが、根こそぎ抜けて役に立たない。
首にまで水がきて、何も考えられない。
もう、ダメ…。
そのとき、木こりの男がザブザブ水に入ってきた。
何事かと黙って見ていると、私と車椅子にロープの端を、そしてその反対側をしっかり木の幹に巻き付けた。
男は軽々車椅子を抱え、私のからだごと堅い地面に置いた。
首から下が泥水に染まり、恐怖と冷えでガタガタ震えてきた。
こんなところに一人で来るもんじゃない!
男は熊のように吠えたあと一言も口を聞かず、町の入り口まで送ってくれた。
結局弟の死に目には間に合わなかった…。
傷が膿んで、しばらくうなされた。
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身よりのない少女は、木こりの男を頼るしかなかった。
森での暮らしは単調で、商店もなければ教会もない。
何よりもパンと水だけの食事は苦痛だった。
夜はこっくりさんを慰めの友とした。
森の奥から声がする。
友だちがほしい。
何人もの友だちがほしい。
男が仕事をしている間、身の回りの世話をしてくれる村娘がいた。
彼女に頼んで、村の若者の遊び仲間に加えてもらった。
町での暮らしを憧れる彼らにとって、少女は格好の話し相手になれた。
やがて度胸だめしだと言って、彼らを森に案内した。
車椅子を押してもらえるので、以前のように手を痛めることもない。
無事に戻れたら、ただのピクニックで終わっていたはず…。
その時だった!
木の根と枯葉の積み重なった地面が、いきなり水のようになった。
先を歩いていた若者たちは、吸い込まれるように消えてしまった。
実は水気を含んだ緩い地盤の上を何人もの人間が歩いたために、液状化現象が起きたのだった!
車椅子の少女は無気力な表情をしていた。
眼前には死んだ弟が手を広げて立っており、耳元ではありがとう、ありがとうという幻聴が続いた。
少女が両手を差し出すと、体が前のめりになって、顔から泥水の中に落ちていった…。
カラスが鳴いた。
しばらくの間、水面にあぶくのようなものが浮かんでいたが、やがてそれも収まり、森は静けさを取り戻した。
(このストーリーは、アニメ「テガミバチ」第19話、松本洋子「閉じられた森」(『ぬすまれた放課後』(講談社刊)所収)をモチーフにしています。)
(ブログ「我夢雑報」2010年8月7〜14日掲載)
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