底なし沼へのお誘い・参
肘を引かれて連れ込まれた先は、使われていないビルのようだ。
ひんやりとして人が他にいる感じがしない。靴音だけが響く。
立ち止まり鍵を開ける音がして、中に引き込まれた。そしてここで待つように言われた。
遠くから女性の話し声。ひどく焦った声で相手に話しかけている。
「本当にあの女、ここにいるのね。あなた方は今まで何をしてたのかしら。」
ドアを乱暴に開ける音がして、その声が私にぶつけられた。
「あら、あなたがうちの人を寝取った女なのね。よくもまあ、抜け抜けと私の前に!」
声が近づいてくる。
けれど私は落ち着いていた。
「あっ、何これ?」
私の目が見えたなら、足を引き込まれて慌てる女の姿を見て吹き出すところだ。
「足が抜けない!ちょっと、突っ立ってないで、手を貸して!!」
ここは人の背より深く掘り下げた穴にセメントを流し込んである。
いったん落ちたが最後、絶対に抜け出せない底なし沼。
私は殺人請負会社の役員として、何人かの処刑に立ち会ってきた…。
「指輪、指輪あげるから出してちょうだい。」
「あらっ、落としたかしら。ああ!このルビー高かったのに!」
「どうして私なの…いや!」
「いやあ!」
女の悲鳴を聞き流しながらしばらくすると、水音も途絶えて、もうすっかり沈んでしまったようだ。
付き添いの男がドアを開けて入ってきたので、手でタバコを求める仕草をした。
仕事のあとの一服。
もし私が違う世界に生まれていたら、こんな汚れ仕事に就くことはなかったろう。
(このストーリーは、江戸川乱歩「影男」をモチーフにしています。)
(ブログ「我夢雑報」2010.3.6掲載)
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