人喰い谷津



昔の田んぼは湿田が多く、お百姓さんが腰まで浸かって田植えするような有り様でした。

それは沼地を切り開いて水稲を植えたからで、谷津という地名が残っているところは、大体その名残なのです。

そんな村のひとつに若い娘が嫁いできました。

飯炊きがうまく、夫は田んぼの世話の合間に食べる握り飯を、何よりも楽しみにしておりました。

妻はやがて村の暮らしに慣れ、村人たちと田んぼに出るようになりました。

畦から畦に青竹を渡して、その上を伝って田植え、草取りをします。

事故が起きました。

田んぼに出た妻が、そのまま帰ってこなかったのです。

夫が寄合に出るため、妻だけが田んぼ仕事をしていたときのこと。

夕暮れどき、竹の痛んだところを踏み抜いて田んぼのなかに落ちたのです。

ただでさえ人の少ない日で、ほかの村人も引き上げた後でした。

野良着に下肥の臭いのする泥水がまとわりつき、体が重たくなります。

足場だった竹組みをつかんでもしなるばかりで、体を引き上げる支えにはなりません。

やがて妻は力尽き、そのままズルズルと泥田に消えていきました…。

村中総出で探して見つけたのは、妻の手ぬぐい一枚きり。

夫は野辺の送りを済ますと、何ごともなかったように田んぼへ出るようになりました。

ただ、秋の刈り入れ時、稲の束を抱え、いつまでも立ち尽くす夫の姿が見られたそうです。

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その村に普請の話が持ち込まれました。

大雨で川の流れが変わり、街道が使えなくなったため、田んぼを潰して道にするというのです。

役人が庄屋の案内で村中を測量し、男達は人夫に駆り出されました。

人が落ちたら出てこれないほどの深い泥田です。

丘をくわで削って、もっこで運び、いくら土を入れても地面が固まりません。

地下から水が染み出して、きりがありません。

神主が言うには、人柱を立てればうまくいくということでした。

たまたま村には巡礼の娘が住み着いておりました。

橋を流され、立ち往生していたのです。

村人の心配をよそに、娘は世話になった礼だと言って、人柱を引き受けました。

ある雨が降る日のことです。

白装束に着替えた娘は、村人たちの見ている前で、普請中の泥田に踏み込みました。

前に進むにつれ、膝が沈み、腰が浸かり、やがて前に進めなくなりました。

背中が泥に染まり、後ろ髪に泥が付いて、やがて姿が見えなくなりました…。

村人の多くは目に涙を浮かべ、犠牲となった娘を哀れみました。

立ち会った役人は娘の覚悟をほめ、祠を建てて祀ることを約束しました。

完成した新しい街道は、時が過ぎ、周りに商店や民家が立ち並び、自動車まで通るほどになりました。

谷津の由来はいつともなく忘れ去られ、後に場所を移された祠だけが時代の移り変わりを見続けております。

(このストーリーは、茨城県八千代町ホームページ、八千代の伝説とよもやまあれこれより、「堂前のおつる田」、
福岡県大野城市ホームページ、おおのじょうの伝説より、「底なし沼の人柱」をモチーフにしています。)


(ブログ「我夢雑報」2010.4.24〜5.1掲載)

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